稲城の梨の歴史


稲城で梨栽培の始まりを伝える古い記録はありません。しかし元禄(1688〜1704)に長沼村(現在の稲城市東長沼地区)の代官増岡平右衛門と川島佐治右衛門の二人が、公用で山城国(現在の京都府東南部)に出かけ、その帰りに「淡雪」という品種の梨の苗を持ち帰り、村内に植えたのが始まりと言われます。その原木は明治22年まで東長沼の清玉園の前庭にありました。清玉園には稲城の梨作りの始まりを伝える「多摩川梨発祥之地」の碑が、庭の片隅に立っており、江戸時代からの稲城の梨づくりの歴史を今に伝えています。


その後、大正〜昭和初期には栽培面積は約100haとなり、市場出荷を中心に隆盛を見ましたが戦争中は一時減少しました。終戦後、梨栽培は徐々に復活し、昭和30年代は観光農園(もぎとり)での販売があらわれ、同時に沿道での直売方式の販売が増加しました。

そして都市化とともに農家戸数、栽培面積ともに減少しましたが、農家直売方式が一般化し、さらに宅配による全国発送へと変化していきます。

平成に入ると、JA合併時に「多摩川梨」から「稲城の梨」へとブランド化をはかり、補助事業等により、地域ブランドの確立に成功しました。